NPO法人江戸川手話通訳者協会会報誌『通研江戸公』第16号掲載

障がいとは何か?

 『クレイマー、クレイマー』と『レインマン』の感動を一つにしたような映画『アイ・アム・サム』というのがある。自閉症の父親サム(ショーン・ペン)は男手一つで娘のルーシー(ダコタ・ファニング)を育て、楽しい仲間に囲まれて幸福な日々を送っていたのだが、ソーシャルワーカーから、サムは自閉症のゆえに父親の能力に欠けると判断され、娘を里親に出すようにと奪われてしまう。かけがえのないルーシーを失ったサムは敏腕弁護士、リタ(ミッシェル・ファイファー)とともに、裁判に出ることを決意するわけだが、サムが弁護士のリタにこう言われるシーンがある。
「あなたが障害者であるにもかかわらず良い父親だということを証言…障害者なんて言うつもりじゃなかったのよ。わたしが言いたかったのは、あなたはえっと…あなたの能力不足。じゃなくて、あなたの知能の発達が遅れているということ。ああ、それはいい言葉じゃないわ。あなたのことをなんて呼んだらいいのかしら。」
そう言われて、サムはこう答える。
「サム。サムって呼んでよ」
(スクリーンプレイ『アイ・アム・サム』97頁)

 弁護士のリタが障害者(handicap)、能力不足(disability)、知能の遅れた(retarded)といった言葉を撤回したのは、これらの単語が差別用語にあたると感じたためで、サムに適切な用語を尋ねたのだが、当の本人はその意図を理解せず、無邪気にも自分のことは自分の名前で呼んでよと、答えるのである。

 日本でも、「障害者」という言い方を避けて、「障害を持っている人」と言ったり、また、自分自身も採用しているが、「障害」の「害」の字を避けて、「障がい」と表記することを意識している人たちもいる。それは、「害虫」とか「公害」といった悪いことを意味する「害」の字を人にあてることはよくないという理由からなのだが、では、「障」のほうはどうなのかと言われれば、これは「障子」と言うときに使われるように「差し障り」があるという意味だから、こちらも本当はあまりよくない意味なのだろう。
 「障害者」という呼び方も以前は別の呼び方だったが、差別語にあたるということで言い換えられるようになった。しかし、現代となっては、その「障害者」という呼び方も改めなければならない段階にきている。ただ、色々と試行錯誤したところで、結局のところ、その身体・精神的な特徴でもって呼び方を分類してしまうのならば、根本的な問題は何も変わらないのかもしれない。

 少し以前に流行った言い方で「障がいは個性」というのがある。障がいをその人の個性と捉えるのならば、その身体的特徴を一々取り沙汰することもなくなるのかもしれない。個性なのだから、一々、その差に目を留めることもないというわけだ。また、障がいというのは特別に変わっていることなんかじゃないということになる。
 しかし、注意しなくてはならないのは、そこから来る「みんな同じ」という考え方だ。ときどき耳にするのは、学校の先生などで「障害のある子も、ない子と同じように扱います」と言う発言だ。一見すると、甘やかさないという理由から、適切な対応のように思える。しかし、その同じように扱うということに疑問を感じるのである。
 元々、その集団には、体力も精神的なものの考え方も生活環境も文化も似ているような子供たちが集めらている。そして、その似たような子供たちが生活できるようなルールが決められ、その子供たちに適った学習方法が行なわれている。その集団に、身体・精神的な違いのある人間を加わらせても、そのルールや学習方法、先生や周囲の接し方に変化がないとすれば、そこに加わった側の人間が様々な訓練や、努力をすることによって、その差を埋めようとしなくてはならないことになってしまう。そういう一方的な努力の押し付けが結果として、インテグレーションの問題のひとつになっているのではないだろうか。
 
 この社会は似たような人間だけで構成されているわけではない。赤ちゃんから、お年寄りまでいるし、男性、女性などの違いがある。肌の色も違うし、言語・文化も違う。そして、身体・精神的な特徴もみな同じなのではなく、実に様々だ。歩ける人ばかりではなく、車椅子を必要とする人もいる。目の見えない人、耳の聞こえない人、そういう様々な特徴を持った人がいて、この社会は構成されているということが、この社会の前提とならなくてはいけないと思うのだ。
 そう発想を転換するならば、障がいというものは、その人自身の中にあるのではなく、そういった様々な特徴を持った人を受け入れない環境の側にあるのだということに気づく。耳が聞こえないとか、目が見えない、足が不自由だとかいうこと自体が障がいなのではなく、そのことによって、学校での集団生活が送れなかったり、職業の制限があったり、自由に移動ができなかったり、人権を踏みにじられるような差別を受けること、それこそが障がいなのだ。

 障がいが何かということが分かったとき、私たちは、その障がいをどうするのかという社会的な責任があることにも気づく必要があるだろう。この社会の構成員は私たち一人ひとりであって、その一人ひとりが意識を変えなければ、決してこの社会は変わってはいかない。
 耳が聞こえない人が口話法という訓練を行なわなければ、参加できない社会が当然の社会なのだろうか? それとも、耳が聞こえなくても、安心して暮らせる社会が当たり前の社会なのだろうか?

手話を学んでいるということは、もう既にその答えを見つけているはずだ。


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