NPO法人江戸川手話通訳者協会会報誌『通研江戸公』第14号掲載

ムラヌシ!?

2月、ある講演会に参加したときのこと。オリンピックの話題で、村主章枝さんのことが取り上げられました。講師は、ろう者だったのですが、「村主」と手話で表すとき、口の形をよく見ると、「スグリ」ではなく、「ムラヌシ」となってたんです。
確かに、今こうして、この原稿を打つパソコンだって「スグリ」と入力しても「村主」と変換されませんので、わざわざ、「む・ら・ぬ・し」と入力しています。それだけ、この漢字の読み方は難しい。では、漢字の読み方が難しいから、そのろう者は、「ムラヌシ」と言っていたのか? 決してそうではないと思います。

 こういう話をすると、「ろう者は漢字の読み方を知らないから教えてあげなくちゃならないんだ」という人がいます。ろう者が日本語での読み方を知りたいと思っているのなら、教えてあげるのもいいと思うのですが、その人が日本手話の中で「スグリ」を「ムラヌシ」と言うのなら、それを聴者が一々指摘することはないと思います。

 例えば、トマトもバナナも英語の発音は、トメイトォにバナーナ。マクドナルドはマックダナーズと言うのが本当は正しいんだそうです。ですから、私たち日本人が英語で会話するのなら、「トマト」ではなくて、「トメイトォ」と言わないと、きちんと通じないということになります。
 でも、日本語で会話しているなら、「トメイトォ」ではなくて、「トマト」で言いわけです。日本語で話をしているのに、アメリカの方から、「マクドナルドではなくて、マックダナーズが正しいんです!」と言われたら、どう思うでしょうか? 大体、「きのう、マックダナーズでマックフライポテト…いや、ポテイトォウを食べてたらさあ」と、言う人がいたら、どうですか? ちょっと、付き合いづらいなぁ、この人、と思ってしまいますね。
ちなみに、フライドポテトはアメリカでは通じません。フレンチフライです。

 「マックダナーズ」は日本人には、言いにくいからという理由で、わざわざ日本人が発音しやすいように「マクドナルド」としたそうです。同じ日本人でも、関東と関西では省略の仕方が違いますよね。関東では「マック」。大坂では「マクド」。この違いはなぜか? これもやっぱり、大阪弁では、「マック」よりも「マクド」のほうが言いやすいのでしょう。あの大阪弁のリズムにはマックよりも、マクドのほうが合うのだと思うんです。
 ところで、「ヴァンゴー」って、誰だと思いますか? あるアメリカ人と話をしていたときのことです。その方は在日20数年になるので日本語が上手なのですが、ときどき、英語も混じる。ヴァンゴー、ヴァンゴーって言うんです。誰かと思いつつ、話を進めていくと、それが画家のゴッホだということが分かりました。日本語では、ヴァン・ゴッホ。英語ではヴァンゴーなんですね。ちなみにミケランジェロは、マイクランジェロー。音楽の父バッハは、バーク。ぼくにはバーカと聞こえます。

 英語では、それが正しい発音であったとしても、その言葉が日本語として定着するためには、日本語になじみやすいような音に変化をするんですね。
 手話が日本語や英語と同等の言語であるという以上、このような音が変化するという現象は、当然、手話にも見られると考えられます。ですから、ろう者が「村主」を「スグリ」ではなく、「ムラヌシ」と言ったとき、それは、「漢字の読み方を知らないんだ。可哀想だ。教えてあげよう」という発想ではなくて、それは日本手話のルールに則った音の変化なのだと理解すべきだと思います。
 
 似たような例は他にもたくさんあって、日本語では「〜というわけです」と言うところを手話では、文末に「意味」という手話を用いて、口形は「〜トイウワケデス」とはならず「イミ」となるのが一般的です。また、「行かなければならない」ということを手話で言いたい場合、手話で「行く・必要」と表した、ろう者の口元は、「イク・ヒツヨウ」となっていることもよくあるわけです。
手話を学ぶ聴者は、こういった現象に対して、正しく理解する必要があるでしょう。すなわち、ろう者の手話は音声言語と同等の言語であること、言語であるということは言語が持つ様々な特徴も当然あるということです。
 
 つまり、ろう者の中に見られる「ムラヌシ」など固有名詞の独特の読み方は、例えば、英語の本来の発音から、日本語として発音しやすいように音が変化をしたカタカナのようなものだと。
 ですから、頼まれもしないのに、ろう者の漢字の読み方を矯正しようとする聴者の行動は、それが親切な心から出たものであったとしても、アメリカの方から、カタカナを廃止しなさいと言われるようなものと同じことだと言えます。
 音声ならば、「ムラヌシ」より「スグリ」のほうが言いやすい。試しに、今、「ムラヌシ」と言おうとして「ムラ…ムラ…」と言っていたら、隣にいる妻に「なに?ムラムラしてんの?」と言われてしまった。
「ムラヌシ」よりも「スグリ」の方が言いやすい。でも、不思議と手話を表しながら口形をつけるなら、「ムラヌシ」の方がやりやすい。
やはり、理にかなっているんですね!


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